昭和五十四年六月二十九日朝の御理解
御理解 第三十七節
生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読 むようなものであろうぞ。
一生が修行と仰せられるのですから、、丁度、学者が学徳が身に付いていく事を楽しみ に、読むなと云われても、勉強するなと云われてもせずに居れないのが生れてくるであろうように、信心も、いよいよ信心の徳が身に付いてくる事を楽しみに有難いと思うて出来るような修行をしたいと思います。
一生、貧乏の修行をしなければならんというなら辛い。一生、人間関係の中で苦しみを 持たなければならないような修行は、いよいよもって嫌である。勿論、病気は、なお嫌である。
だから、そういう事で修行するという事ではなくて、そこにはもう豊かに使こうても使 こても、いわゆる[使うて減らぬ、金百両]といったようなお徳を受けて、おかげを受けて、その中での一つ修行であり、そういう修行を身に付けたい。
皆さん、どういう修行だと思いますか。御祈念をする事も有難いし、楽しい。大祓信行 五巻、十巻と決めておっても、もう止めようがない位に有難うなることがあるでしょう。又、今日はもう大祓信行せずに休もうかと、思うような事もあろうけれども、そういう所を辛抱して修行させて頂く事によって、なら大祓信行が身に付いてくる。身に付いてくるもんでなければだめです。
最近、合楽の信心が、いうならばもう土の信心に極った。大地の信心。それこそ、土の 心を心として、黙って受けて受け抜いて、しかもそれを自分の心がいよいよ大きく豊かになる事の喜び、楽しみを感じる。
どうですか、黙って治めるなどという信心はね、心がいつうも黙ってではなくて、その 修行をさせてもらいよると、心が豊かになってくるね。〔その〕ような心が広ろう豊かになっていきよらにゃ、心の信心をしよるとはいわれんですよ。
土の信心に極った。土の信心をいよいよ、いわゆる黙って治める、それに徹する信心を させて頂きょったらね、いうならば、イライラする事も無くなれば、腹の立つようなことも無くなった。もう問題が、問題で無くなってくる。これが土の信心の、いわばおかげのの特異性です。心豊かに、大きくなっていく。
いよいよ人間関係など、無くなってくるです。土の信心をさしてもらいよると。先ず、 第一に人間関係がない。いうならば有難い、あの人も良い人、この人も良い人、本当に神様のような人達じゃというような人達の中に、いうなら過していける。いうなら、そこに極楽世界があるのです。周囲が、神様や、仏様のような人達ばかりだ。
そういうように見えてくる。だんだん土の信心をさしてもらいよると。で、土の信心は 、もうそれこそこれに極ったという程しですから、長年、さまざまな角度から頂いてきて、まあ、土の信心はこんなものだと、一通り皆さんが分かったという事になって、ね、残されている天の、「天の信心」、天の心を心とする信心に、まあ、これから私共、取り組ませて頂こうとするわけです。
限りなく、美くしゅうなる事。しかも、無条件。しかも、与えて与えて止まない、もう 与えとうて与えとうてたまらないという、与えて与えて止まない心。
向こうが向こうじゃけん、遣ろうと思いよったばってん、もう遣ろうごつないといった ようなものじゃなくてね、限りなく美しく、限りなく潔ぎよう与えて与えて止まないね、そういう信心を身に付けていく時に、いうならば、天地が足ろうた、いうならば天地金乃神様のご信心はいよいよ身に付けていく事になり、そういう信心が、もう、いやが上にも楽しゅうなってくる、有り難うなってくる。しかも、愉快になってくる。
どうでも皆さん、そういう信心に精進、成る程、この信心、この修行でいくなら、成る 程一生が修行中でも、有り難うして有り難うして、その有難いというものがね、あの世にも持っていけるんだ、しかも、この世にも残しておけるんだと思うと、これはもう、いやが上にもそれを大きなものに、豊かなものに、正確なものにしていかねばおれないという修行。そういう修行をね【 】かけての一生の修行でなければいけないという事なんです。
例えば、熊谷さんあたり、もうたしか八十ですか。ほんにもう、八十にもなってから、 こげん早う、おそうから毎日参らんならんちゃ、こげな、ほんにきつい修行はなかとちゃ思ちゃなかごたるですばい。最近、安武先生があちらに下宿される事になって、先生の自動車で便乗してみえる。
だから、朝の御祈念、朝の御祈念と思うとった、その念願が叶うて、もう有り難うて嬉 しゅうして楽しゅうしてといったようなものがです、熊谷さんの、いうならば、あの信心からうかがえる。
その内容が、なら、どういう事かというと、天の心にもなさせてもらおう。地の心も、 いよいよ、それを、いよいよ完璧な本当な、土の信心を身に付けようという、そういう精進だと思う。
健康ではある、子供達の出けはよい、なに不自由、困るという事はない。そこには、も う人間関係すらも、問題が問題でなくなって来ておられる。まあ、ちょっとした見本だと思うですね。
それを、生涯、いうならばかけていくという事。これを、いうならばあの世にも持って いけ、これがこの世にも残るんだと思うたら、いよよ、それは楽しいものになってくるんです。有難いものです。
今日は、「天の理」という事を頂いたんです。はあ、天の信心、いわゆる、天の心を心 とする信心という事が、最近、日々説かれております。天の理とは、どういう事だろう。私は、すぐ直感して、天理教と思うた。ね。
天理教は、まあ地の信心を説かれないわけではないでしょうけれども、天の理一本でいかれる宗教ですね。最近、天の心がどういう心かという事が、だんだん分かってくればくる程、なるほど、天理教の天理ということは素晴らしいなあ、なるほど、それが一つの教風と、教団の一つの教風ともなって表われておるという事であります。ね。
もう、限りなく美しゅうなる。しかも、無条件。無条件の奉仕。与えて与えて止まない 潔い心。
天理教の方達は、これは、本当に見上げたもんですね。あの天理教の、印半纏を着て、 そしてあの「ひのきしん」というですか、ああいう御用に打ち込んでおられる姿って素晴らしい、ね。私共の信心には、このようなところが欠けておったようにある。
せめて、十三日の日ぐらいは、本当に、あのひのきしん的な御用が出来ると有難い。そ の日は、天地金乃神様の願いが成就する日として合楽では大事にする。せめて、十三日ぐらいは、出来るなら一家中で、朝から、いうならば「ひのきしん」である。ね。御用でもさせて頂こうと、いったような生き生きした心。
ある人が、ある人というが、まあそれが余りにも潔い、余りにも素晴らしいので、人が それを悪口さへ云う場合があるですね。「屋敷を払うて田売り給え」といったような、天理皇の命と云うようにです、これはあまりにも素晴らしいのですから、それがいうならば悪口にまで、信心のない、いわば口さがない人達の上に、口端に上るような、いうなら事すらありますです。という程にはっきりしているわけです。
十をのものなら、七つ八つは地の信心。それを私共は、本気で極めようとしてきたら、 後の二分の、いうなら所の天の心が、これに相俟って本当の信心だと云う。
よく私は、そういう御取次ぎをさせて頂くんですけれども、御造営が始まった。「先生 、御造営のおかげを頂きたいと思うばってん出けまっせん。どうぞ、商売の大繁盛のおかげ頂かせてください。そして、おかげ頂かせて下さい。」ね。
「今度は、○○の売り出しをします。どうぞ、お繰り合せのおかげを頂いて、どうぞ御造営費が御供え出来ますように繁盛させて下さい。」
一応、もっともなようだけれども、昨日も、そういう人があった。最近、金の相場が下 がって、今度は確かに上がるそうな、だから、その金を買うとけと勧められておると。だから、御造営費も出けんから、どうでんこうでんおかげを頂きたいと思うから、どげんさせて頂いたらよかろうかといってお届けがあった。「それは、買わしてもらいなさい。金儲じゃから。けれどもね、そういうことで儲かったからという御供えじゃあいかんばい。」と、私は申しました。
皆さん、どげんですか。百万なら、百万儲かった。そして、そん中から十万なら十万、 おかげで儲かりました、というような御供えならいかんばいと、私が。
だから、そういうものは切り捨てて、御供えするというようなことは考えずに、そして 、ただ金儲うけの道であるならば、金儲うけが出来ますようにというて、金を買わせて頂くという。だから、十買わせて頂いたがよかろうか、百買わせて頂いたがよかろうか。
「そりゃ、あんたが金儲けじゃから買われるしこ買うたらよかじゃんの」と申しました。儲かったから、その中から御供えするといったようなね。
これは、私が椛目時代、ある教会の信者さんが、丁度、その教会が御造営の話があっと った。丁度その頃は、百万円の宝くじじゃつた。だから、百万円の宝くじを、そこの親先生にお願いした。「先生、どうぞ当たるごつお願いして下さい。半分な、御供えをするけん」ち、いうた。したら、先生がいいなさったち。「あんたが、そげな半分どん御供えするちいうごたるこつじゃ当たりゃせんばの。百万円そのまま御供えする気になるなら、私がお取次させて頂こう。」ち、云わしゃった。
「のうや大坪さん、そげなこつなら当ったちゃ、あなにんならんじゃんの」と、私に云 われた人がありますよ。
けれども、これは笑えない。みんなが、そんなものを持っている。おそらく、百万円御 供えするけんち、当たるとも思われんけれども、そういうケチな事では、天の心にはなれんのです。
これは、椛目時代にも、毎年、毎年狭うなってから、毎年、毎年、お広前が広うなって いきましたよね。
そういう、ある時でしたが「むつや」の田代さん、石井さんが、まだ健在の時でしたけ れども、ある、何とか売り出しをなされました。そして、あのう、今度の売り出しは、もう増築があります。その、増築の費用ににかけます。と、いうてもうそれこそ、今までかってないような大売出しが繁盛したんです。そして、その時、子供達の預金貯金まで、子供達が、その御造営、お話し頂いとりますからね、貯めよるわけです。御造営、御造営ち。それで、それまで含めて、御供えされた事があります。初めから、それだもん。
百万円儲かったら、五十万は御供えします、といったようなケチなもんじゃなかもん。 これには、潔ぎよさも、美しさもないでしょうが。
天の理には、そげんとはそわない。今日、私が最後に頂いた事は『身を削り、心を削り といわれるが、心を削るということが地の信心だ』と、おっしゃる。
なるほど、頂いてみるとその通りです。地の信心というのは、心を削り、清まっていこ う、改まっていこうという事にならなければ出来ない事です。
『天の心とは、身を削る』と、頂きました。だから、儲かったら御供えしようといった ケチなもんではだめだという事。身を削る、という所に素晴らしさがあるんです。
身を削る事が天の心であり、心を削っていくことが、だから、これからの私共の修行と いうものが、生涯かけての修行というなら、心を削り、身を削り、いうなら天の心、地の心を心としての修行であるならば、神様が喜びなさらんはずがない。神様が、一礼申す、というような働きが生れてくる。神様と氏子が、仲ようする信心がいよいよ生れてくる。神様と私共が、仲ようする信心。いわゆる、合楽である。
合楽世界、そこから生み出されてくるおかげは、いよいよ商売大繁盛であろう。すべて の上に、おかげがお繰り合せが、おかげが頂けてくる。生み出されてくる、おかげ。そこから、いうなら使うて減らぬ金百両、もう限りないおかげに繋がっていく事が出来るということなんです。
皆さん、天の心の信心に入ったら、御造営、御造営、ぽかっと思いがけないお金でも入 ってくるなら、御供えはしても天の心にはならん。天の心というのは、それこそ、身を削って信心。ね。
今まで、百円使いよった小遣いを五十円にする。煙草、飲みよったのを止める。お酒も 止めた。こういう経費がかかりょたのを始末、たとえば、倹約をさせてもろうてというのならば、身を削る事になるでしょう。未だ、身を削るという事は、色々ありましょう。
身を削ってこそ、はじめて天の心という事。心を削って地の心であるように、身を削っ て、なるほど、そういう意味合いです。天理教の人達が、身を削って、さあ家も屋敷も払うてしまうように、おかげを頂かれるから、なるほど、ああいう大きな教団になったという事が分かります。
合楽の場合は、そこに天の信心がある、地の信心がある。だから、どんなに削っても、 削っても、削り損になるというような事は、先ず、絶対にないでしょう。御供えしたら、家屋敷、みな売ってしまったという事は、先ず、ないでしょう。そこから、神様の喜びを受ける事が出来る、そんならば土の心、地の心で受け止めて、天と地とが、それこそ、鶴亀が舞い遊ぶようなおかげともなって来るでしょう。
そういう、おかげを、私は生み出す信心だと思うんです。皆さん、地の心とは心をを削 る事、天の心とは、いよいよ身を削る事。
こんな絶好な、チャンスはありません。御造営などといった事が、いつもかつもあるわ けではありませんけれども、本当に、あん時に、身を削らせて頂いて神様の喜びを受けたのであろう、というような、ひとつおかげを頂いてもらいたい。一生が修行というのは、そういう修行を身に付けたい。 どうぞ